みなさま、こんにちは。こちら飯綱は、初雪が降り、今は根雪となって積もっています。
最近、「よんぶんのいちの奇跡」山本加津子著,マキノ出版という本を、読み始めています。まだ読み始めですが、とても興味深く、皆によんでもらいたいとおもいました。
差別する心は、人間の心の、どこからくるのでしょうか。じぶんが差別された経験を持つ人は、その体験の分だけ人にやさしくなれるのかと思っていましたが、それだけでもないようです。
「私たちの子は、体だ。あんたらの子は、頭だ。」という言葉は、身体障害児をもつ母親が、知的障害児の母親に向かって言った言葉だそうです。同じ障害児を持つ母親同士、助け合い、協力しあわなくてはいけない者同士が、差別しようとする。体に障害を持った子の方が、頭に障害を持った子よりましだ、とでもいうように。
差別のメカニズムとしては、自分と同じものを持っている、似ているものに対して、自分を見ているようで嫌だ、という心があるのでしょうか。
興味のないものに対しては、何も思わないはずです。
自分の中に相手に対して興味を持っているからこそ出てくる感情なのでしょうか。
本の中で、山本先生は言います。
昔、アフリカのある村で、マラリアが猛威を振るい、村が壊滅的な打撃を受けます。しかし、どんなに伝染病が蔓延しても、どんなに絶滅するほどの病死者が出ても、必ず生き残るグループがいました。マラリアが多く発生する地域では、ある一定の割合で、伝染病に強い突然変異遺伝子を持つ人がいる、ということ。そして、その「強者の遺伝子」を持つ人が生まれるとき、高い確率で,その兄弟に重い障害を持つ人が現れる、ということがわかったのです。その確率は、4分の1。4人の子供が生まれた場合、必ずそのうち一人は、成人前に亡くなってしまうような、重い障害を持つことになります。
つまり、人間がマラリアとの生存競争に勝つには、マラリアに強い遺伝子のほかに、病気や障害を持つ遺伝子も必要だった、ということです。病気や障害を「引き受ける人」がいなければ、その村は絶滅していたことになります。
それから、生命科学者で自らが原因不明の難病を発症し、闘病生活をつずけている柳沢桂子さんのことば。
わたしたち全人類は、ひとつの大きな「遺伝子のプール」を共有しています。
新しい子供は、この大きな遺伝子プールから、個性豊かな2万個もの遺伝子を与えられてこの世に生れてくる。そのため、つくられる個体が、非常に多様性に富むことになり、まったく同じ遺伝子組成を持った人が、一卵性多児以外には存在しない。
遺伝子の突然変異を起こして多様化していくことが、この地球に適応していくこと。多様化するときには、ある一定の頻度で、重度の病気や障害を持つ子供を生み出してしまうもの。病因遺伝子を持つ人の多くは、結婚期に達しないうちに、つまり子孫を残すことなく死亡してしまう。だが、社会全体に病因遺伝子を持つ人は減っていかない。病気の遺伝子を含めた「遺伝子の多様性」こそが、人間の優秀さを、そしてあなたの優秀さを生む源泉となっている。個人にとって「悪い遺伝子」というものはあるかもしれませんが、社会にとっての「悪い遺伝子」というのはないし、あってはならない。あなたに与えられたかもしれない病気の遺伝子を、たまたま受け取って生まれてきた人がいる。
また、「人を癒す能力」と「癒しを受ける能力」について
人間には、人を癒す能力と、癒しを受ける能力がそなわっている。
しかし、人を癒す力は傷ついた相手を「助けよう」と思ったその瞬間に失われてしまう。
癒す、というきもちをまず捨てる事。そして、苦しむ人を、あるがままの状態で受け入れ、いかなる価値基準でもその人を判断しないこと。無心になって相手と寄り添う事。これは「相手を愛する」ということ
人間は、唯一無二のユニークな存在です。そして、人間は、自分と人を区別したがります。しかしそこには、差別の心があっては、ならないと思います。いのちの森水輪では、どんな状態の人も尊重され、差別を受けることはありません。それは、やはり、さおりさんという存在が大元にあるからに他ならないと思います。