みなさまこんにちは!
早穂理さんは、最近、発作の時に徐脈というものが起こるようになってしまいました。
(脈拍数が少なくなり、心拍を打つ数が少なくなってしまうことです。)
今は、安静にして、気を付けて様子を見ている状態です。
早穂理さんが、今、元気で生きていることが本当に奇跡のようなことだと、ときどき思います。
お産の時の障害で、ハンデイを持ってしまった早穂理さんは、43年間ねたきりの生活ですが、それでも早穂理さんは、生きていること自体を喜んでいるように感じます。
すべての困難を乗り越え、自分の運命にも打ち勝って、全てに感謝しているように感じます。
だから、早穂理さんの笑顔は、わたしたちに大きな力を与えます。
今年の夏も、辛い風邪をひき、肺炎になってしまったさおりさんですが、大量ステロイド投与で一命をとりとめ、無事生還しました。
この季節になると、いつもさおりさんが前回入院した時の、壮絶な様子を思い出します。
10年前、2007年の冬12月26日に、さおりさんは風邪で高熱を出し長野日赤へ救急車で運ばれました。
入院した当初は“風邪”だったのですが、院内感染で、強い菌をもらってしまい、風邪が悪化して肺炎になってしまいました。
状態が悪化したので「抗生剤」を使ったのですが、早穂理さんには、副作用ばかりが強く出て、抗生剤を打つととたんに身体はどんどん冷えだし、病状もよくなりませんでした。
しかし、状況は感染症と抗生剤のイタチごっこで、より強い抗生剤を打つと、それより強い感染症にかかり、またそれより強い抗生剤を打つ。すると、またそれより強い感染症にかかる、という具合でした。
どんどん、どんどん、強い抗生剤を使うようになり、ついには、早穂理さんは、抗生剤の副作用により、内臓出血をおこしてしまいました。
胃からも出血し、尿も赤く、膣からも出血し、便も下痢が止まりませんでした。
偽膜性大腸炎も併発しました。
もの凄い激痛のなかで苦しむさおりさん、お腹の中にはまるでエイリアンがうごめいているようでした。(本当にあったことです。)
また、経管栄養をお鼻のチューブから採り、何種類か飲んでいた抗ケイレン剤も、点滴の中に入れてもらって摂取していましたが、病院側がその中の一種類の抗ケイレン剤を入れていなかったため、テンカンの間代性大発作が何度も起こってくる、重積発作がおこってしまいました。
ただでさえ、熱が40度近く連日連夜出ていて、呼吸もゼコゼコと浅く、早い呼吸で、苦しさのあまり泣きながら呼吸をしているような状態で、見ていてもかわいそうでした。
早穂理さんの心拍は早鐘のように打っており、140近くなっていました。吸入している酸素は13リットルでした。
そんなときに、テンカンの大発作もおこってきて、筋肉の緊張から、気道がねじれて呼吸が出来なくなり、唇が紫色になるチアノーゼがおこってきました。
発作は、その酸素を体内に供給できない影響は大きく、通常、発作自体も苦しいのですが、発作後にも大きな影響がでます。筋肉の末端や、内臓にまで酸素がいきわたらない為に、手足には力が入らずだらんとしてだるい状態になります。喉の筋肉も、ごっくんと飲み込む能力が下がり、気管のほうに飲みこんだ水や食べ物がたれこみ、せき込んだりして食事をとることも困難になります。
(そのとき早穂理さんは、お鼻のチューブで栄養を取っていましたが。)
そんななかで、その様子をずっと見ていた研先生とみどり先生は、見るに見かねて、モルヒネを早穂理さんに打つことを、考えます。
みどり先生は、なんとか早穂理さんの苦痛を取り除いて楽にしてあげたいという気持ちから、安楽にしてあげる方法はないかと考えました。
また、研先生は、なんとか早穂理さんの命をなんとしてでも、生き永らえさせたいと考えました。
そこで、研先生とみどり先生の、男と女、父と母を越えた、本当にどうしたらよいかの激論がはじまりました。何日も何日も、論議を交わし、愛する娘のために、いかにしたらよいのかを話し合いました。
結局、早穂理さんには、モルヒネとステロイド剤が大量に投与されました。
とにかく、医師たちも治療の一環として、苦痛を取り除いてあげたいということでした。
早穂理さんは、昏睡状態になり、眠りつづけました。
主治医からは、打つ手はもうない、と言われ、この状態からよくなった人はいないと言われました。病院からの措置は、ただ補液が点滴で打たれるだけになりました。
その時の、みどり先生はとても冷静でした。「これで、本格的にホメオパシー一本で治療できる。」と、前向きでした。
ホメオパシー専門医の帯津先生とファックスや電話で連絡を取り合い、毎日毎日病状に合う、レメディを質問しました。
しかし、医師から見放された早穂理さんの状態は、すでに臨終のときを迎え、安置所も用意されていました。
研先生、みどり先生は、病院へ24時間泊まり込み、眠るのもさおりさんの隣にある、折り畳み式の簡易ベットでした。
それまで、忙しく病室へ来ていた看護師さんたちも、ぱったりと来なくなりました。
やっと来た看護師さんは、早穂理さんの痰を、一生懸命吸引していたみどり先生に向かっていいました。
「お母さん、もうそんなに、一生懸命、痰をとるひつようはないのよ。モルヒネで意識はないから、さおりちゃんは何も苦しくないんだから。」
しかし、みどり先生は必死でした。たとえ、早穂理さんが、死んでいくとしても、肺がどろどろの痰でいっぱいになっていたら、棺桶の中でも呼吸するのが苦しいだろうと、あとから考えると、ちょっと変ですが、真剣にそう思って、連日連夜、夜遅くまで、さおりさんの痰を取り続ける日が続きました。
そして、帯津先生が処方して下さるホメオパシーを、みどり先生は祈るような気持ちで早穂理さんに与え続けました。
早穂理さんの心拍は、だんだん遅くなり、一分間に本当に少ない数しか打たないようになりました。
ある時、病院のみどり先生、研先生から電話がかかってきて、「早穂理がもうこれで天国へ行くかもしれないから、みんなでお祈りしていて!」と言いました。
呼吸も、心拍も、極端に回数が減っていました。
飯綱の早穂理庵では、早穂理さんのお部屋に、お布団が敷きなおされ、ろうそくなどが用意されて、早穂理さんのお葬式の準備がされました。
最後に早穂理さんが着る、パジャマも用意されました。
死に水をとる、“しきみ”という植物も病室に用意されました。
娘のお葬式の買い物が終わり、日赤病院の駐車場に立った研先生は、急に足ががくがくと震えだし、立っていられなくなったそうです。さおりが死んでしまうなんて・・・!!
ところが、霊安室も用意され、今日亡くなるか、明日亡くなるか、といっているうちに、それでも早穂理さんは昏々と眠りつづけ、そのうちに、何だかだんだんと、元気になってきているようなかんじになってきました。主治医の先生に、「先生、なんだか一命をとりとめて、今回の危機を乗り越えるような気がするのです。このままモルヒネを打ち続けたら殺人になってしまいます。」と塩沢両先生は、土下座をしてお願いしました。
打ちつづけていた大量のモルヒネの量をだんだん減らしていきました。様子を見ていると、眠り続けていた間に、体力が温存されたのか、その間にあきらめずに痰を取り続けたために、タンでいっぱいだった肺がきれいになったのも、助かった原因のひとつかもしれません。
その後、三か月の入院生活をおえて、さおりさんは生きて早穂理庵へ帰ってきました。
モルヒネを打つ時も、さおりさんは、本人の意思で決めることが出来ないために、病院の中で医師の話し合いが開かれ、研先生、みどり先生もそこに参加して審議の上、やっと治療がされる、という感じでした。
病院では、慣例や規則のために、病室の調理器具を使って、さおりさんのお食事を作ることが難しかったのですが、それらの困難とも研先生、みどり先生は戦って、なんとか使えるように交渉し、さおりさんのための酵素玄米の特別食を温められるようにしました。
(病院で使われている、経管栄養の流動食はさおりさんではすぐに下痢をおこし、栄養状態が極端に悪くなってしまいました。)
塩澤両先生,早穂理さんのいない、水輪の留守を守っていたのは、厨房の美佐子さん、お客様対応、セミナー対応をしていた山下さん、航介さん、他のスタッフのメンバーです。
美佐子さんは、早穂理さんが大好きで、それまでも何回もの入院中も、毎日朝晩と、グリーンオアシスの厨房で、早穂理さんの流動食を作り続け、お鼻のチューブで食べれるように、濾し網で濾して、それをタッパーにつめたものを、クーラーボックスに入れ、他のスタッフが車を運転して、先生の着替えや、お弁当などの差し入れと一緒に届けていました。
今でも、思い出すのは、もう駄目だという医者の宣告にもかかわらず、早穂理さんの回復を願い、あきらめないで痰を取り続けた、みどり先生と、研先生の早穂理さんへの強い愛情です。
病院からは、補液だけで、すべての治療を打ち切られた病室の一角で、さおりさんはこんこんと眠り続け、みどり先生はさおりさんを助けたいと祈り、ホメオパシーを与え続けていました。
帯津先生にも、ほんとうにお世話になりました。
全国で祈ってくださった皆さん、そして、いのちの森のみんなが一丸となってくれました。
今、さおりさんはコンクリートの病室ではなく、あたたかい人の輪がある自宅で、ホメオパシーを使いながら、塩沢ご夫妻に囲まれて元気に過ごしています。
年が明け、4月になれば早穂理さんは43歳です!
もし私が43年間歩けず、ベットに寝たきりだったらと思うと、ほんとうにさおりさんは偉いと思います。